2013年07月26日

容貌差別

 4年前のことになるが、現代舞踊の発表会のとき、男性楽屋に小学生の男の子の母親が居座って、私は着替えをすることができなかった。男の子がいる手前、私は母親に席を外してくれと言うことができず、仕方なく、トイレに着替えに行った。するとそこには、既に、東京からゲストで招かれた男性がいて、着替えを始めていた。彼はクラシックバレエを踊る予定のダンサ−であったが、彼も私も、トイレでの着替えは非常に不快であった。男性楽屋に居座った女性は、そのほかにもデリカシ−の欠落を感じさせる女で、彼女は男の子に向かって、「男は顔じゃない、男は顔じゃない・・・」と、何回も何回も何回も何回も繰り返していたのである。私がその男の子なら、生涯、母親に憎しみを抱き続けるだろう。男性から美を求める権利を奪うハラスメント、その理不尽は、心に突き刺さるものだ。因みに私は、人に公言する勇気はなく秘密にしていたが、当時、綺麗になりたくて、某大手エステサロンに定期的に通い、顔のマッサージを受けていた。

 ところで、一昨年のことであるが、新聞に、たいへん嬉しい記事が載った。男性に対する容貌差別が、裁判で解消されたというニュ−スである。記事本文は下に掲載するが、勝訴したのは37歳の男性。彼は21歳のとき「高温で溶けた金属を顔や首、上半身に浴び、瀕死の重傷を負った」が、男性であるために、障害等級で顕著な差別を受けていたのである。しかし彼は、主治医の言葉をきっかけに国を提訴し、勝訴する。
 厚生労働省はこれを機に、障害等級の見直しに着手し、男性への容貌差別は解消された。裁判で代理人を務めたのは、糸瀬美保さんという弁護士であった。美保さんだから女性なのだろうと私は思う。弁護士が女性であることが、私には強い感動であった。

掲載記事は以下の通り。

【記事名】 医療ルネッサンス No5130 
          見た目の悩み 「補償の男女差 解消へ尽力」
               2011年7月27日 読売東京 朝刊 生活B 12版 22頁
【記事本文】

 今年、「見た目問題」を巡り、国の制度が大きく変わった。仕事中の事故で大やけどを負ったある男性の訴えが実を結んだ。
 2010年5月27日、東京地裁で言い渡された民事訴訟の判決。労働災害で顔に傷が残った場合、補償の程度を決める障害等級が、男性は女性より低く設定されている国の基準は「法の下の平等を定めた憲法に違反する」との判断だった。男女差に納得いかなかった京都府内の男性(37)が、国を相手取って起こした裁判。国は控訴せず、判決は確定した。
 男性は21歳だった1995年、勤務していた工場で、高温で溶けた金属を顔や首、上半身に浴び、瀕死の重傷を負った。命を取り留めた後も、重いやけどを治療するため。皮膚移植などの手術やリハビリを繰り返した。事故の恐怖がよみがえるPTSD(心的外傷後ストレス障害)の症状にも苦しめられた。「楽しいはずの20代を治療だけに費やした」という。
 これ以上、治療による改善は望めないというところまで来た29歳の時、主治医がつぶやいた言葉が、制度に疑問を持つきっかけになった。「こんなになったというのに、この障害等級は低すぎる」。
 労災保険法の施行規則は、障害が重い順に1〜14級に分類。顔などに重い傷が残ると、女性は7級となり、平均賃金の131日分が年金として毎年支給されるが、男性は格段に低い12級で、156日分の一時金のみとなっていた。女性のほうが受ける制約が大きいと見なされていたためだ。
 「男だってつらいのは同じ。仕事を見つけるためにすごく苦労したし、女性に対して消極的になってしまい、彼女をつくる気持ちにもなれなかった」と、男性は訴える。
 見た目だけでなく、体やのどのやけどの後遺症で首が動かしにくかったり、せき込みやすかったりすることもあり、正社員の仕事はなかなかなく、アルバイトでしのいだ時期もあった。やけどの痕を隠すため、人前では夏でも長袖で過ごす。「今頃は結婚して子どももいて、家族で海や温泉に行ったり、楽しく暮らしていたかもしれないのに」。
 厚生労働省は、この判決を機に障害等級の見直しに着手。今年2月から格差は撤廃され、男女いずれも7級に統一された。
 「だれかが勇気を持って声を上げなければ、制度は変わらなかったでしょう」。裁判で代理人を務めた糸瀬美保弁護士は語る。
 男性は「裁判はつらい体験を思い出さなければならない苦しい作業だった。でも、逃げないでよかった」と振り返った。


posted by 翠流 at 00:50| Comment(5) | ジェンダー・アイデンティティ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月15日

ロングカ−ディガン

ある人から、私たちの服装について、
その自由を強調するコメントをいただいた。
返信はすでに書いたが、
実は私も、基本的には、服装の自由を主張する人間の一人で、
服装に関する私の個性は、男性としては、たぶん強い。

私は、小心であるし、自分の美意識からも、
社会から外される服装はしていないが、
実は私は、1年ほど前から、
メンズライクではあるが、
レディ−スのロングカ−ディガンを着て、
ショッピングモ−ルを歩くようになった。
以前買った、比較的高価なメンズのセ−タ−の中に、
綺麗なパ−プル系の、気に入っていたVネックがあるが、
この冬はそれを着ることがなかった。

好きなデザインの、
素敵な色調のロングカ−ディガンを着て、
全身が映る鏡の前に立てば、
その中に、幸せな自分がいる。
私は、上からあたる直射光を嫌うが、
均一な、柔らかい光であれば、
求める美しさは、鏡の中に現れる。
煩悶から解き放たれた、幸せのひととき、
それは、もしかして、ナルシシズム?
いや、そのような自己陶酔ではなくて、
もしも私が女性であれば、
鏡の前の、当然の権利としての、
平凡な幸せとして。

私が通うダンススタジオの、ある女性が言った。
今度生まれてくるときも女がいい。
女の方が楽しいことがたくさんありそうだし・・・・・。

私は、ロングカ−ディガンを着てショッピングモ−ルを歩きながら、
彼女の言葉を思い出す。
美しさを着て、幸せそうに歩く女たち、
私はひととき、彼女たちと同化して、
美しさを着る幸せをかみしめる。
男たちの知らない幸せがここにあると。


posted by 翠流 at 23:54| Comment(2) | ジェンダー・アイデンティティ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月19日

服装の自由と性的挑発

人に不快感を与えすぎない範囲で、という条件はあるが、
服装は、基本的に自由のはずと、
私は、以前の記事に書いた。
しかし、私たちの生活を見れば、
そこには、個性を無視した服装の制約があって、
私たちは、自由ではない。

たとえばレディ−スであるとかメンズであるとか、
どこの誰が決めたのか、私にしてみれば、わけのわからない分類によって、
区別された衣料品とそれに応じたショッピングモ−ルの空間がいつのまにか用意され、
私たちは性別に応じて、
それぞれの空間で自分の買い物をしなければならない。

私は、クロスドレッサ−(トランスヴェスタイト)の人たちを気の毒に思う。
特に男性のクロスドレッサ−。
なぜなら、理不尽なことに、
男性の異装は、女性のそれより咎められやすいからだ。

もっとも、私が若かった頃に比べれば、
社会はずいぶん寛容になった。
たとえば私の居住県では、6年ほど前であったか、確か中学校で、
トランスセクシュアル(トランスジェンダー)のFtM(注1)の生徒が、
異性の服装で、卒業式への参列を認められた。
その背景には、県の法務局の人権擁護課の働きかけがあったようで、
それを促したのは、当時の法務省の、
性的マイノリティ−に対する人権擁護の動きであったと私は捉えているが、
もとより、生まれ落ちた性別によって、
その人の、人間としての本質が決まるはずはなく、
人には本来、社会通念としてのジェンダ−の呪縛から、
自由になる権利があると私は思う。
          (注1) Female to Male(女性から男性へ)
1年ほど前であったか、新宿のあるクリニックで、
乳房の摘出手術を受けた FtMの人が死亡した。
その手術を執刀した医師は、
すでに性別適合手術を受けた MtoF(男性から女性へ)の人と聞いた。
その、叫びのような悲惨を、
私たちは受けとめ、
トランスセクシュアルの人たちの人権を、擁護しなければならない。

ところで、冒頭に書いた「人に不快感を与えすぎない範囲」の服装の自由に関わって、
私は、近年とみに顕著となった、女性の、性的挑発傾向の強い服装に、
強い当惑とストレスを感じている。
その服装は、女性解放の一つの形であると、
私が女性であれば表現可能であるが、
私は男性として存在しているがゆえに、
例えば昨年の夏、私は、
オリンピックの女性競技者の衣装やユニフォ−ムの変化を見て、
ショックで、体重が2kg減った。
それには、私のジェンダーアイデンティティに関わる疎外感が、
かなりの質量を以って関わってはいるが、
しかし同時に、性的対象がノーマルである私の、男性としての側面から言えば、
その、性的に翻弄されるコスチュームが、
オリンピックの映像であるがゆえに世界的承認の中にあると認識され、
一層強いショックを受けたのである。

消費の世界であれば、
女性をターゲットとした優遇戦略を記事として取り上げてきたが、
ファッションであれば、
女性の「着る幸せ」が、際限なく拡大を続けるような今にあって、
それは、美しさを求める私にとっては、
たどり着けないがゆえに一層の、羨望と嫉妬の対象ではあるが、
同時に、その、ファッションの進化の中で、
性的挑発傾向の強い服装が、
男性の性的心理を知りつつもそれに構わず、
或いは、時にはそれを意識的に利用しながら?
私たちの日常に流出し、
挑発は罪ではないが挑発されるのは罪であるかの如く男性を翻弄する今の時代に、
私は、強い疲労と、やり場のないストレスを感じるのである。

その、性的刺激の本来の意味を考えれば、
それは、性的に成熟した異性に対する生殖行動のリリ−サ−(解発因)なのであって、
愛し合う二人の間でそれをどう使うかは、
全く二人の勝手であるが、
不特定多数で構成される社会の中で、
たとえば男性が明らかに翻弄される極端なミニスカ−トであるとか、
派手な下着が透けて見えるトップスであるとか、
下着そのものが裸出されたファッションであるとか、
そういう、リリ−サ−を開放しすぎるファッションは、
私のような男性にとっては、
紛れもないセクシュアルハラスメントなのである。

ところがそれを、「男性に対するセクハラである」とは表現しない風潮が強くなっている。
それは、「男性は過度の性的ストレスにも耐えなければならない」という、
不当な性別役割の押しつけであると私は思う。
性的挑発は罪ではないが、それに翻弄されるのは罪であるというような、
あたかも、自己中心的な解放運動であるかのような、
新しい男性差別の出現である。

ちなみに、過日マスコミで話題となった某航空会社の、
女性乗務員の極端なミニスカ−トについての賛否を問うアンケ−トの集計結果の中に、
反対理由として「乗客のセクハラを誘発する」という表現があった。
要するに、極端なミニスカ−トを、
「男性乗客に対するセクハラである」とは表現しないのである。
それは、男性を、より加害的な立場に置こうとする、男性差別の視点である。

考えてみれば、もとより、男性が女性の性的刺激に翻弄されるのは、
自然が男性に与えた宿命なのであって、
その感受性がなければ、男性は生殖に参与できない。
この、男性の不可避の弱点を知りながら、
翻弄される男性を嘲笑するかのように街を歩く女たちもいる。
それを批判すれば、男性が悪者にされてしまうような風潮の中にあって、
理不尽なストレスは、増すばかりなのである。


posted by 翠流 at 18:33| Comment(0) | ジェンダー・アイデンティティ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月16日

マイノリティーの人権

このブログを立ち上げる時、
私は、自分の位置を示すために、
憲法14条だけではなく、13条も引用した。
それは私が、自分の中の非凡を意識するからである。
非凡は差別の対象になりやすく、
差別撤廃運動は、差別された人たちの中から始まる。

一般的に言えば、或いは概括的に言えば、
幸せの必要条件は、一つには「平凡」であって、
「非凡」は、社会的疎外の可能性が高いという意味からすれば、
不幸との契約であると言って、過言ではないと思う。
しかし、その「非凡」は、憲法13条があるがゆえに、
擁護の可能性から疎外されているわけではない。
たとえば私は、以前、
性的マイノリティーの人権を扱った本の中で、
同性愛の人たちを擁護する弁護士の発言を読んだ。
彼はその中で、憲法を引用して、
13条を立脚点としてたたかえば、
やがて必ず希望の光が見えてくると、語っていたのである。

私自身は同性愛ではなく、バイセクシュアルでもなく、異性愛であって、
また、典型的な性同一性障害でもないのであるが、
しかし、だからと言って、normal male であるわけではなく、
やがて渡辺恒夫の「脱男性の時代」から得る知識で言えば、
ハリー・ベンジャミンの言う「仮性異性装指向」であり、
更に後になって、MtFのRさんから得た知識によれば、
WHO(世界保健機関)の言う「両性役割服装倒錯」なのである。

振り返れば、私の、その萌芽は、
小学校6年の時であった。
季節は確か秋だったと思う。
私は、クラスの女の子が身に着けてきた衣類と同じものを、
買って身に着けたいと思ったのである。
しかし、当時の、まだ11歳であった男の子が、
自分で買うことなどできるはずもなく、
私はやむなく、嫌いな母親に頼んだのである。

しかしその時、既に私の中には、
この私の行動が、男の子として許されるものではないという意識が、
確かに存在していた。
その認識の起点がどこにあったのか、
私には記憶がない。
しかし恐らくは、私を取り巻く日常の中で、
外部注入的な強制力によって、
その意識は、形成されたのだろう。

母親は、私の予想通り、
その衣類を買ってくれなかった。
私には、それ以上の行動などできるはずはなかった。
私は心の中に、わだかまりを抱き続けた。
ところがやがて、大学時代に東京に出るようになって、
私は、中央線の吉祥寺駅の、確か駅ビルであったと記憶するが、
或るブティックで、メンズの、その製品に出会うのである。
私は非常にうれしかった。
つまり、この私の指向性に、フェティシズムは存在しない。

当時、その製品には、淡色系の綺麗な品物もあったし、
ブラウン系のチェックの製品もあった。
私はうれしかった。
今振り返るとこの頃は、男性のファッションが、
ジェンダーバイアスから、やや解放されていた感があって、
私はジーンズは履かなかったが、
スラックスにも、不自然ではない程度にフレヤードの製品があって、
私は好んでそれを履いた。
しかしやがて、この時代が終わり、
フレヤードのスラックスはなくなってしまう。
以後、私が履くスラックスは、
すべてオーダーとなった。

ところで、近年の日本の、性的マイノリティーの人権擁護の機運に関わって、
その契機を知りたいと思い、
関係機関に問い合わせの電話をする中で、
私は、法務省の人権擁護局人権啓発課から、幾許かの情報を得た。
私の電話を受けた男性職員によれば、
国が性的マイノリティーの人権擁護に踏み込んだ契機は、
当時の社民党の、ある議員の、国会質問だったのだそうだ。
やがてこの問題は、閣議決定を経て、
法務省のスタンスを変える。
人権擁護局は、2002年から、性的マイノリティーの人権擁護を、
「おもな人権課題」の中に取り入れた。
要するに、国が、性的マイノリティーの味方になったのである。
国が味方になれば、変革は進む。
この件からは、私自身も恩恵を受け、
2014年4月15日の記事「ロングカ−ディガン」を書けるようになったのは、
まさにその、恩恵の所産である。

要するに、社会的な機運の高揚は、
国のスタンスの変化、そしてその結果としての社会の変化に負うものであって、
LGBTの人権擁護は法務省、そして、
男女共同参画という美名を使いつつの、実態としての女性優遇運動は、
内閣府の男女共同参画局が、その発信基地となっている。
しかし、私がこのブログで採り上げているような男性の人権問題、
或いは、解消されるべき男性差別問題については、
国はその味方にはならず、むしろ、
今、巷で一層の流行を見せている女性優遇配慮を、黙認・是認・推進することによって、
男性差別を拡大させている。

その背景には、
「かつて女性は差別されてきた」という論理だけがあるわけではなく、
いずれまた別の機会に書くこともあるだろうが、
恐らくは、かつて、戦前戦中の男性教育の中で、
戦争の道具として増幅させられた「男らしさの規範」、つまりは、
男性集団の中に存在する多様性を無視し、
「美しさを纏う権利」や「涙」や「尊厳としての羞恥」や、
「苦しさを訴える権利」「救いを求める権利」を剥奪し、
唯々、「戦いに勝つための道具」「強くあるべき道具」「耐えるべき道具」「守る役割を果たすべき道具」としての性別役割の、
外部注入的強要によって形成されたジェンダーバイアスの価値観が、
既に戦後70年を経過した今日にあっても、
日本の社会に根深く存在し、
「男らしさの規範」の同調圧力として、
男性を呪縛しているのである。

男女共同参画は、「固定的性別役割からの解放」を、理念の一つとして掲げ、
私は、多様性尊重の理念を失することがなければ、
この男女局の理念に、共感、賛同するが、
しかしその解放は、特に女性に於いて顕著なのであって、
男性解放は、今も遅々として、進んでいない。
そして、その男性解放を阻害している主役は、恐らくは、
ジェンダーギャップ指数によって示される女性差別の指標としての圧倒的多数の男性議員を含め、
社会の上層に位置し、施策の根幹を握っている男性たちにあると感じるのである。
彼らは、上述の如き性別役割の、男性に対する同調圧力的強要を保持したままであるが故に、
例えば、男性に顕著な危機、自殺・孤独死・引きこもり・癌死のような事象に対しては、
その危機を、或いは、その危機に対する支援のメッセージを、抑制的に表現する。
そして、既に多数の例を提示してきた災害対応の女性優遇配慮についても、
男性への配慮の脆弱、或いは配慮の不存在に、疑義を呈さないのである。
従って、このような男たちのスタンスによって、
マジョリティーであると表現されてきた男性集団の中に、
現実的には、男性であるがゆえに脆弱な配慮しか得ることができないという意味での、
マイノリティーの領域が拡大する。
つまりは、ジェンダーギャップ指数として提示される日本の女性差別の現実は、
実は、その内実として、社会上層の男たちの同調圧力に起因する男性差別の領域を含むと、
認識されるのである。


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2015年05月31日

ある本について

ある人から紹介されて、
渡辺恒夫の「脱男性の時代」(勁草書房)を買った。
初版は、1986年ではあるが、
たとえば第四章に「問題提起」として記されている下記引用文のような認識は、
今も甚だ今日的な意味を持ち、
私の持つ問題意識に、次第に、
鮮明な姿を与えてくれるように思われた。

  本書第4章−1: 問題提起より

    人は女として生まれるのではない。女につくられるのだ。
                        ・・・・・・ ボーヴォアール『第二の性』

     この書物を通じて、私はたえずボーヴォアールに対抗し、「人は男として生まれるの
    ではない。男につくられるのだ」という新たなる定式を強調してきた。そして、その論
    拠の一つとしてたえず援用してきたのが、男であることに間断なく苦しみ、漠たる空想
    にとどまることなく、真の意味で、生涯かけて変性を願望する男性は、女であることに
    間断なく苦しみ、真の意味で変性を願望する女性よりもはるかに多いという、現代性科
    学の発見だった。

もしも、ここに書く私の認識が、
独りよがりの偏見であるならば、
社会はそれを否定することが可能であって、
否定こそが是であると、
社会は評価するのかもしれない。
しかし私は、日々、日常の中の男性を見るにつけ、
彼らが、いつの間にか、自らが男性であることに囚われて、
無理をして、不器用に、自己抑制や背伸びと共に、
男性であろうと、或いは男性になろうとする姿が、
あるように思われる。

それは恐らく、彼らが、その生育過程で、そして今も、
強要される「男らしさの規範」のせいで、
彼らはそこに依拠しなければ、
自らの存在が、あたかも瓦解するかのような、
怯えを抱えた脆弱な存在のように思われる。

それに比すれば、normal female の女性たちは、
女の時代の、今にも支えられながら、
いつの日も、したたかに、そして自然に女であって、
彼女らは、動じない、同一性の心を携え、
その美しい肌も、美しい髪も、
そして、美しさをまとう権利を与えられたそのからだも、
脆弱さなど微塵もなく、この世界に存在しているように見える。

したたかな女たちと、
その手のひらの上の、脆弱な男たち。

ところで私は、
性同一性障害の人たちとの交流会の中で、
ある MtoF の人から聞いた。
彼女が通院しているジェンダークリニックの医師によれば、
最近は、MtoFの通院者が、
性同一性障害であるか否かの判断が難しくなっているのだそうだ。
それは恐らく、
男性であることのストレスの増幅のゆえに、
女性への変性願望が、
男たちの中に拡大浸潤を続けている証であろうと、
私は、その話を聞いた。
解放された女の時代と、解放を阻む男らしさの呪縛が、
男性の、変性願望を増幅させている


posted by 翠流 at 01:54| Comment(3) | ジェンダー・アイデンティティ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月20日

服装差別

今回は、まず服装に関わる私の感受性を、改めて確認し、
続いて、前回紹介した「脱男性の時代(渡辺恒夫著)」の、 
関連部分を引用する。
このような記事を書く背景には、
私や、私と類似した感性を持つ男性が、
男性であるが故に回避できないストレスや被差別の事実を、
渡辺恒夫の言葉を借りながら、
顕在化させたいという思いがある。
既に、別の記事に書いたように、
この思いは、憲法第13条の理念によって、
擁護されなければならないと考える。

記事「マイノリティーの人権」に書いたように、
私は、既に小学校6年の時から、
社会には、男性に対する「服装差別」が存在すると、
強く感じてきた。
それは私の感受性の為せる業であって、
理屈の所産ではない。
ここ数年の経験からすれば、
私は、やはり別の記事(注1)に書いたように、
秋から翌年の春にかけて、メンズライクではあるがレディースの、
ロングカーディガンを着て街を歩くようになって、
その思いを一層強くするようになった。      (注1)記事「ロングカーディガン」

レディースの衣料は、色も柄もデザインも素材も、溢れるばかりの種類に彩られ、
女たちは、それだけでも充分に幸せなのであるが、
着てみればそれは、実は視覚的な意味合いだけではなくて、
肌を通して、つまりは皮膚感覚によって、
更なる幸せを与えるように仕立てられていると実感する。
それは、男たちを疎外し、女たちが占有する世界である。

美しさや様々の彩りだけでなく、皮膚感覚の喜びも剥奪されたメンズの衣料は、
私たちの社会に存する男性の性別役割に類似して、
男たちを、「男性用」という強制力によって、
硬く粗雑で、無機質な世界に閉じ込めようとする。
それは、私の感性からすれば、
紛れもない、ジェンダーハラスメントなのである。

「脱男性の時代」から、関連部分を引用する。

 【p.78〜79】・・・ 近代市民社会にあっては、女性の美が前代にも増して尊重され称揚され
    る一方、男性の美は無用とされ、それどころか、男性は美しくあってはならないと
    する不可視の規制力が、私たちの内面を支配し、美意識を根底から条件づけている
    のが見られるのである。このことは、今日、街頭で見受けられる女性の服装が、美
    を際立たせるよう巧みに工夫されているのとは対照的に、男性の服装が、美的な要
    素の排除を基調として組み立てられているかに見えることからも、充分裏書きされ
    ることであろう。かかる社会にあって、生来美的な感受性に恵まれた少年が、成長
    するにしたがい、自分は美しくもなければ美しくあってもならない方の性に属して
    いるのだということを、ことあるごとに思い知らされ、深く心を傷つけられないと
    したら、かえって奇妙なことと言わねばなるまい。

まさに、渡辺恒夫の言う通りであると、私は強く実感する。
続いて渡辺恒夫は、横溝正史の小品「蔵の中」から、
次のような、作中の「私」の文章を引用する。

 【p.79〜80】・・・ そのうちにこれではまだ満足できなくなって、長持ちの中から、姉の形
    見の振り袖を取り出すと、それを自分の身につけて見ました。さやさやと鳴る紅絹
    裏の冷たい感触が、熱っぽい肌をなでて、擽るようなその快さ、・・・・(中略)・・・
    私はしばらく驚異の眼をみはって、茫然としてこの美しい、・・・(中略)・・・ その
    うちに何とも言えぬほどの寂しさにうたれました。ああ、私は何だって男になど生
    まれて来たのであろう。女に生まれていたら、毎日こうしてお化粧も出来、色美し
    く肌触りのいい着物を着てくらせるのに、男に生まれたばっかりに、こんなゴツゴ
    ツとした、くすんだ色の着物よりほかに着ることも出来ず、お化粧をするわけにも
    参りません。何という勿体ない事であろうと私は思わず、ふかい溜め息をつくので
    した・・・・・・。

横溝正史の、表現の卓越に敬服する。
まさにこの、作中の「私」のような男性が、
「男性」と名付けられる集団の中に存在する。
そして彼らにとっては、
今日の服装の、性による区別は、
まさに、ハラスメントとしての「服装差別」そのものなのである。


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2015年12月24日

ジェンダー アイデンティティー (1)

私が通うサロンのエステティシャンは、
私の顔のマッサージをしながら、受容的なトーンで言う。
「翠流さんて、普通の男性と、ずいぶん違うみたい ・・・」
私は、その言葉を聞きながら、二つの感情を抱く。
一つは、彼女に受け入れられているという安堵感。
そしてもう一つは、今日もまた、
私はマジョリティーではないと、思わされるストレス。

私が所属しているボランティア団体の、まだ若いあの人は、
昨年の夏、私が、紫色の大きな花柄の、もちろんレーヨン素材の、
ウエストをつめた、流れるようなラインのアロハシャツを着ているのを見て、
驚いたように、しかし好意的に言った、
「翠流さんって、オシャレですね ・・・。それ、どこで買ったんですか?」

アロハシャツの季節が終われば、
やがて、ロングカーディガンの季節がやってくる。
私は、今年もまた、お気に入りの、メンズライクの、レディースの、
ロングカーディガンを着て、ショッピングモールを歩く。
下は、ダンスショップでオーダーの、
ベロアのような綺麗な素材の、フレヤードの黒のパンツ。

今日のトップスは、ラウンドネックと、
その下の、薄い柄物の、レディースの、タートルネックだった。
きのう私は、ある店の、メンズのコーナーに満足できなくて、
レディースのコーナーに行き、それを買った。
昨年も、そうだった。

被害妄想か否か定かではないが、
私に圧力をかけるように近づいてくる女性客。
しかし私は、心に幾ばくかの動揺を与えられても、
買い物を続けられるようになった。
それは、私に新しく与えられた解放と、長すぎる歳月を経ての開き直りと、
法務省が、人権擁護の主要課題に、LGBTの人権擁護を掲げるようになったという、
社会の変化があるからだろう。
しかしもしも、私が女であったなら、
その、長すぎる抑圧の歳月はなかった。

私が常連となった、某レストラン。
その、まだ若い女性店長は、笑みを浮かべながら私に言う。
「翠流さんて、ほんとうにオシャレですね。この前も、ほかの人と話してたんですよ・・・。」
それがたとえ、職業的な笑みであっても、
私は、その、彼女の言葉に癒される。
しかし、時代を見れば女性たちは、私より遥かに自由で、
消費の世界の、一層の主役となった彼女たちと私の距離は、
むしろ、広がり続けていると、私は思う。

女たちには、限りない美の自由があり、
男たちには、それを阻むバイアスがつきまとう。

私より遥か後方にいて、
美を剥奪された閉鎖空間に住む男たち、
彼らは果たして、本当に、今の自分に満足しているのだろうか?
彼らは、もしかすると、心の底では美を求めつつも、
無理をして、不器用に、「男らしさ」の呪縛の中に、
閉じ込められているのではないだろうか?
呪縛を捨てれば、新しい幸せが来るというのに・・・。

私は、私が、今のままで、
マジョリティーになることを願う。

私たちは、本来、絶対性のないジェンダーの呪縛から自由のはずであって、
生まれ落ちた性別によって、求める世界が制限されてよいはずはない。
外部注入としてのジェンダーの呪縛は、
個性を阻む性的偏見として、理不尽なジェンダーハラスメントを招来する。
男性として生まれたという事実は、
何を求め、どう生きるかという、その人の本質を決定しない。
それは、女性として生まれても、インターセックスとして生まれても、同じである。
私たちには、自分らしく生きる権利と、自由があるはずなのである。


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2017年06月26日

ジェンダー アイデンティティー (2)

女性だけに与えられる美しさに、
羨望と嫉妬を抱きながら、
今日までを生きてきた。
「区別」という名の「性差別」、
私は、私の求める美しさと、皮膚感覚について、
私と乖離する長い歳月を生きてきたことになる。

振り返れば、
私の女性美羨望は、修正不能の持続であって、
それは、本能のような重さをもって、
私の人生を呪縛してきた。

私はもともと小心であるから、
女性衣料で街を歩くことなど、できるはずはなく、
職場ならそれは、なおさらのことであった。
しかし美しさへの憧憬は、常に心に巣食っていて、
女性美を剥奪された男性用衣料の中の、
しかしそれでも、できる限りの美しさを求めて、
デパートの紳士洋品売り場を歩き回っていた。

ある日、淡いパープル系のハイネックの、
スタイリッシュなメンズのセーターを着て職場に行った時、
管理職No.2の男がそれを見て、当惑の表情を浮かべたが、
私は、文句を言われれば、開き直るつもりだった。

またある日、遠方へ向かう3泊の下見旅行の準備会で、
中間管理職の男が、「男性はスーツにネクタイにしましょうか」などと言い出したので、
私は感情を抑えきれなくなって語気を強め、
「そんなことしたらハラスメントじゃないですか」などと発言したのであった。
私の勤務先は、同系列の職場の中では締め付けが弱かったこともあって、
彼の提案は潰れ、私は、旅行の初日、綺麗な臙脂色のハイネックセーターと、
ライトグレーのブレザーを着ていったのであった。

たぶん、そういう私の雰囲気が言わせたのであろうが、
ある日、職場の女の子が、私のところへ来て、
「翠流さんって、女になりたいんでしょう ・・・」などと言うのであった。

その彼女が、2年後に職場を去り、
翌年、私もまた、新しい自由を得て職場を去り、
やがて私は、秋から春にかけて、既述の如く、
メンズライクではあるがレディースの、
ロングカーディガンを着て街を歩くようになった。

新しい自由は、私を、自分らしさに連れていった。
しかし、家庭があれば、ダメだったでしょうね。妻や子供が許さない。
私のような人間は、家庭づくりができなくて、一人が自分に合っている。
淋しさには、もう慣れてしまった。

ところで私は、最近になって、改めて意識したことがある。
それは、私が持つ、衣料のこと・・・・・
その3分の1は、男性用なのであるが、
残りの3分の2の、その半分は、オーダーの舞踊衣料、
そして残りは、女性用なのである。

いやいや、ご安心ください。
繰り返しますが、私が持つレディースは、
メンズライクですから ・・・・・。

以前、東京の、MtoFの、素敵な人が、
心配する私に、電話で言った。
「だいじょうぶ。だって、翠流さんは、そんな、変な恰好してないじゃない ・・・ 。」

春の終わる頃から、
ふだんもはくようになった、バレエ系レッスン用のハーフパンツは、
レディースでも、黒や紺や、紫の色調が多くて、
メンズと違って、ラインが綺麗に、お洒落に出ますが、
ふつうの人は、メンズかレディースか、わからないでしょうね。

以前、このブログで紹介した渡辺恒夫の本、
「脱男性の時代」:アンドロジナスをめざす文明学、を思い出す。
彼はその「第2章ー3」で、
ベンジャミン(H.Benjamin)の「性指向尺度(Sex Orientation Sukale)を、
次のように紹介している。
私は自分のことを、その「T型」だと思っている。

【性指向尺度(Sex Orientation Sukale)】:ベンジャミン(H.Benjamin)

  0型:正常男性(ノーマル・メイル)
  T型:仮性異性装指向(シュード・トランスヴェスティズム)
       ・・・・・ 定期的女装にまで至らぬ軽度の女装趣味。含変身空想。
  U型:フェティシズム的異性装指向
       ・・・・・ 定期的女装。特に下着への興味と自慰時の使用。
  V型:真性異性装指向(トゥルー・トランスヴェスティズム)
       ・・・・・ 可能な限り女装。女装時に女性の意識を持つ二重人格。
  W型:非手術性変性症(ノン・サージカル・トランスセクシュアリズム)
       ・・・・・ 可能な限り女装。性転換を願望するが転換手術の必要は認められず。
  X型:中等度真性変性症
       ・・・・・ 可能な限り女性としての生活。
  Y型:重度真性変性症
       ・・・・・ 女性として生活。


posted by 翠流 at 00:57| Comment(3) | ジェンダー・アイデンティティ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月25日

多様性の尊重を求めて

2017年 6月26日 に、このブログに掲載した記事、
「ジェンダー・アイデンティティー(2)」の末尾で、
私は、ベンジャミン(H.Benjamin)の、
「性指向尺度(Sex Orientation Sukale)」を取り上げ、
自己認識を「T型:仮性異性装嗜好 」と書いた。
この「T型」は、WHO(世界保健機関)の ICD-10 であれば、
「両性役割服装倒錯症」に含まれるようであるが、
このような性別違和の問題について、
先日、ある人から、いくつかの質問を受けた。
今回は、その中から、
次の質問への、私の回答を掲載する。
掲載の理由は、社会に対して、
多様性の尊重を求めるからである。

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【質問】 (あなたは当事者として)、周囲からどのように扱われることを望みますか ?
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【私の回答】
・・・・・・・・・・・・・
  「私個人として」ということであれば、私の個性を認め、受け入れ、尊重して欲しい、
 ということになりますが、一般化して言えば、「男性は」 「女性は」というような、二項
 対立的な視点ではなく、人間の多様性を認め、受容し、誰もが幸福感を得られるような
 社会的対応を望む、ということになると思います。固定的な性別観や性別役割の強要は、
 性同一性障害やXジェンダーの人達に限らず、様々な個性を持つ人達、そして様々な社
 会事象について、ジェンダーハラスメント、或いはセクシュアルハラスメントを引き起
 こすと思います。それは、不当な性的偏見に基づく人権侵犯だと思います。私には法学
 の知識はありませんが、多様性を踏まえた「個人の尊重」は、憲法13条に、そして「人
 権尊重の平等」は14条に、保障されているはずと思っています。

  様々の社会事象について、人権尊重に関わる発言を補足します。いわゆる「性別違和
 感」との重複部分を持つ事象と、持たない事象の両方があると思いますが、例えば、災
 害対応(被災者支援)、いのちの支援(健康支援・自殺対策)、その他様々な危機に対す
 るセイフティーネット、消費の世界の営業戦略、そして、日常生活での様々な支援・対
 応等についても、固定的性別観・性別役割の強要、多様性を無視した人権軽視・無視、
 過去の差別に対する反動としての新しい差別、或いは温存されたままの差別が、非常に
 多く存在していると思います。私は、人権尊重の平等を求めて、自分なりに、合法的な
 取組みをしてきたつもりですが、壁が非常に厚く、道は遠いと感じています。

  性的マイノリティー(LGBT)の人権擁護については、恐らくは、それが法務省の「主
 な人権課題」の中に記載されるようになったために、つまりは、国家権力の一部を手に
 することができたために、救いの道が開けるようになったと私は認識しています。それ
 は、社会が多様性の尊重へ向かう端緒として、画期的で、非常に重要な役割を果たして
 いると思います。しかし、今も国家権力から認知されず、疎外され、大衆運動としても
 成熟できていないその他の多様性、つまりは、人数に限らず、疎外と未成熟の中にある、
 という意味でのマイノリティーに対する人権尊重の運動は、Xジェンダーの顕在化が、
 その一部に光を当てるようになったとはいえ、今も様々な壁に阻まれ、疲弊から脱却で
 きない状態にあるのが、今の日本の社会だと思っています。
                                    (以上)


posted by 翠流 at 01:20| Comment(0) | ジェンダー・アイデンティティ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月16日

某所への書籍紹介文

たまたま機会を得て、ある団体の広報誌に、
「脱男性の時代(渡辺恒夫著)」の紹介文を書くことになった。
私は、その団体に所属していながら、
アウトサイダーのような行動と発言をして、
末席をけがしている存在なのであるが、
だからこそ書けるような紹介文ではあって、
それが、それ故に団体の活動には寄与しないかというと、
必ずしもそうではないようなのである。

紹介文には字数制限があったが、
それ以前に、私の狭い問題意識からの紹介文であるから、
本の内容全体に対する客観性という点でみれば、
脆弱さが、多々指摘されるのだろう。
しかし私の、大きくは二つの問題意識と、この本との共鳴部分については、
表現したような気もするし、
それは、はなはだ今日的な問題でもあるのだろう、とは思う。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【紹介文】
  「性的マイノリティーへの理解と、ジェンダーハラスメントからの解放のために」
       書名:脱男性の時代 ・・・ アンドロジナスをめざす文明学
       著者:渡辺恒夫。 勁草書房。

 この本の著者、渡辺恒夫は、ボーボワールが示した定式に対抗して、「人は男として生まれるのではない。男につくられるのだ。」という新たな定式を強調してきた。歴史を振り返れば、戦前戦中の男性教育は、まさにその典型であっただろう。それは戦争の道具としての男たちをつくりあげる教育であって、多様性を内包するはずの男性集団への画一化教育であった。勝つことから乖離する要素は男たちから剥奪されていった。それは例えば「涙の剥奪」であり、「美しさを身に纏う権利の剥奪」でもあっただろう。そういう、いわばジェンダーハラスメントとしての抑圧と、その結果としてつくられた男たちの暗部を照明しながら、渡辺恒夫は「アンドロジナス(両性具有)」への道を模索する。

 「美しさを纏う権利の剥奪」であるならば、引用された横溝正史の「蔵の中」で、作中の「私」は、姉の形見の振袖を身に着けながら、男に生まれた理不尽を嘆く。「私は何だって男などに生まれてきたのであろう。女に生まれていたら、毎日こうしてお化粧も出来、色美しく肌触りのいい着物を着てくらせるのに・・・」と。

 この「蔵の中」が映画化されたのが1981年。そして「脱男性の時代」が刊行されたのが1986年。以後、ある人の言葉を借りれば、日本の性同一性障害解放運動の「胎動期」を経て、2002年に「人権教育、啓発に関する基本計画」が閣議決定される。法務省はこの決定を受けて、「主な人権課題」に性的マイノリティーの人権擁護を入れた。国がLGBTの味方になったのである。

 このような変化を含め、多様性という言葉が社会に拡散する時代となった今、しかし、冒頭に記したような男性教育が仮に不存在であっても、社会には、その影響下でつくられた「男らしさの規範」が、今も根深い同調圧力として存在する。解放された若い女性に比するなら、男たちは今もその圧力に呪縛され、不器用に生きているように見える。渡辺恒夫はこの本の中で、21世紀は男性問題の世紀になると予見していた。見えやすい強さとしての体躯や筋力を自然から与えられ、前述の如き性別役割を背負わされてきた男たちの、しかしその内部の、未だ暗部として存在する脆弱さに光を当て、渡辺恒夫は、男性解放へ向かう選択肢の一つとして、アンドロジナスへの道を提起する。


posted by 翠流 at 23:56| Comment(0) | ジェンダー・アイデンティティ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする