2013年06月22日

あの人は今どこに

Kスポ−ツクラブの男性更衣室の件があってから、
私は、男性の人権擁護に取り組む団体を探して、
インタ−ネットで検索をするようになった。
その頃、ネットには、「メンズリブフォ−ラム札幌」という名のHPがあって、
「活動場所」と書いてある北海道立市民活動促進センタ−に電話をしたことがある。
連絡先は、札幌エルプラザの市民活動センタ−だという話を聞いて、
そちらに問い合わせの電話を入れたが、
「今はもう活動していないようだ」という答えしか返ってこなかった。
「賛同人」になっていた、北海道大学大学院の助教授の、
Sさんに聞けば何かわかるかもしれないと思い。
そちらにも電話をしましたよ。
出てくださったのは庶務のOさんという人で、
私の電話をていねいに受けてくださって、
助教授のSさんと連絡を取ってくださった。
しかし、得られた答えは市民活動センタ−と同じで、
結局私は、「メンズリブフォ−ラム札幌」を立ち上げた人の名前も、連絡先も、
知ることができなかった。

わからないから、X(エックス)さんにしましょうか?
Xさん、あなたは今どこにいますか?
もしかするとすぐ近くにいて、
「差別ネットワ−ク」に書き込みをしていたりして?

インタ−ネットを媒体として男性差別とたたかう人には、
私など足下にも及ばない論客もいて、
それは、幾ばくかの安らぎを私に与えることもあるが、
なぜか、男性差別とたたかう「団体」の姿が、
「差別ネットワ−ク」以外には見えてこない。
「男性差別を許さない市民の会」には、何回かアクセスしましたが、
なぜかご返事いただけないのです。

「賛同人」に大学の先生を据えて、
前向きな言葉でホ−ムペ−ジを立ち上げていたXさん。
あなたは今、どこにいますか?
あなたのような人や、インタ−ネットの論客や、
全国の、男性差別を憂う人たちが結集して、
男性差別とたたかう団体が、
今の日本にはつくられなければならないと、
私は強く思っている。

2013年09月18日

愛の世界をあなたに (1) 百万本のバラ (加藤登紀子)

加藤登紀子の歌は共感性に溢れています。
私は最近、特に「18の頃」が好きで、車の中でよく聴いていますが、
今回は、有名な「百万本のバラ」を、このブログにのせることにしました。

本当は、私のCDから、画像なしでアップしたかったのですが、
著作隣接権の問題をクリアできないので、
You Tube からのリンクにさせていただきました。

    【追記 2014.8.14】 
       下の動画がいつの間にか削除されてしまい、たいへん残念です。
       しかし、曲は You Tube で聴くことができます。
       URLは次の通りです。

http://video.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=%E7%99%BE%E4%B8%87%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%83%90%E3%83%A9+%E5%8A%A0%E8%97%A4%E7%99%BB%E7%B4%80%E5%AD%90



私は、特に、
安らぎのない日々を送っている男性に、この曲を聞いてほしいと思っています。
加藤登紀子の歌声は、きっとあなたを癒やしてくれるはずです。

ある男性はネットの中で、「この曲を聴いて泣いた」と言っていました。
「貧しい画家」と自分を重ね合わせたのだそうです。
でも、人前では、男性はそんなこと言えませんよね。

しかし、もしもあなたが一人の部屋でこの曲を聴くのなら、
見ている人は誰もいません。
ジェンダ−の呪縛を捨てて、あなたは泣いてもいいのです。

     ◆      ◆      ◆

ところで、「ウィキベディア」からの引用ではありますが、
この曲の解説を、次に要約します。

 『百万本のバラ』の原曲は、1981年にラトビアの放送局「ミクロフォンス」が主催する歌謡コンテスト「ミクロフォナ・アプタウヤ」で歌われた『Dāvāja Māriņa:マーラ(注1)は与えた』というラトビア語の歌謡曲。作曲はライモンズ・パウルス。作詞はレオンス・ブリアディス。この曲は、コンテストで、アイヤ・ククレ とリーガ・クレイツベルガ の2人によって歌唱され、優勝曲となった。歌詞の内容は、後述のロシア語版やその内容を踏襲した日本語版とはまったく異なり、大国にその運命を翻弄されてきたラトビアの苦難を暗示するものだった。ラトビアのラップ歌手のオゾルスが、この曲をラップミュージックに編集して歌唱している。
     (注1) 「マーラ」はラトビアの神話に登場する女神。ラトビア神話の神々のなかで、
        最高位にある神の一人。

 アーラ・プガチョワの歌唱で知られるロシア語版の作詞者は、アンドレイ・ヴォズネセンスキー。1982年にメロジヤからシングル盤として発売された。多くのテレビ番組やラジオ番組で取り上げられ、ソ連崩壊まで長きにわたって絶大な人気を博した。日本では、ビクタ−から、1983年にLP盤が、1988年にはCDが発売された。

 歌詞の内容は、グルジアの画家ニコ・ピロスマニが、マルガリータという名の女優に恋をしたという逸話に基づいている。ラトビアの作曲家が書いた曲に、ロシアの詩人が、グルジアの画家のロマンスをもとに詞をつけ、モスクワ生まれの美人歌手が歌うという、多様な民族の芸術家が絡んでいる点で、ソ連ならではの歌とも言える。

 このロマンスの真実性については諸説ある。ピロスマニは、マルガリータをモデルとしたといわれる作品を何枚か残しており、グルジアの首都トビリシの国立美術館で、『女優マルガリータ』を観ることができる。1969年、パリでピロスマニの個展が開催された際には、マルガリータ本人と目される女性が現れたと伝えられる。一方、1975年にピロスマニについての研究書を著したエラスト・クズネツォフは、この著作の中で、マルガリータの実在性に強い疑問を呈している。

 山之内重美は、2002年の著作において、ピロスマニにマルガリータという名の恋人がいたことは確からしいとしつつ、彼女がバラの花を愛した、とか、画家が大量の真紅のバラを贈った、といったエピソードは、ヴォズネセンスキーの創作だとしている。2007年には、ロシアの文化テレビ局が放送した、ピロスマニについてのドキュメンタリー番組で、パリでの個展の際の出来事が紹介された。

 日本語版は、加藤登紀子の訳詞、および歌唱にて、1987年にシングル盤として発表されたバージョンが著名。
                                  

2014年04月15日

ロングカ−ディガン

「女性専用車両に反対する会」の入会申込書の中に、
最近の女性の、性的挑発傾向の強い服装を批判する文章を書いたら、
「市民権さん」から、
「服装の自由」を主張するコメントをいただいた。
返信はコメント欄に書いたが、
実は私も、基本的には、
「服装は自由だ」と主張する人間の一人で、
服装に関する私の個性は、男性としては、たぶん強い。

私は、自分に似合わない服装はしないが、
実は1年ほど前から、
メンズライクではあるが、
レディ−スのロングカ−ディガンを着て、
ショッピングモ−ルを歩き、
喫茶店でブログの原稿を書くようになった。
以前買った、比較的高価なメンズのセ−タ−の中に、
きれいなパ−プル系の、気に入っていたVネックがあるが
この冬はそれを着ることがなかった。

好きなデザインのロングカ−ディガンを着て、
全身が映る鏡の前に立てば、
鏡の中に、幸せな自分がいる。
記事「男性の自殺 (1)」に書いた理由によって、
私は、光を気にするが、
それが、均一にあたる柔らかい光であれば、
求める美しさは鏡の中に現れる。
煩悶から解き放たれた、幸せのひととき、
それは、もしかして、ナルシシズム・・・・・?
いや、そこまでの自己陶酔ではなくて、
もしも私が女性であれば、鏡の前の平凡な幸せとして・・・・・。

私が通っているダンススタジオの、ある女性が言った。
今度生まれてくるときも女がいい。
女の方が楽しいことがたくさんありそうだし・・・・・。

私は、ロングカ−ディガンを着てショッピングモ−ルを歩きながら、
彼女の言葉を思い出す。
美しさを着て、幸せそうに歩く女たち、
私はひととき、彼女たちと同化して、
美しさを着る幸せをかみしめる。
男たちの知らない幸せがここにあると・・・・・。


2014年08月17日

「高野悦子」のこと

若い人は 高野悦子のことを知らないのかもしれない
ふり返ればすでに 遠い日のことだ

私がまだ10代の頃 
1969年 6月24日の未明に
高野悦子は自殺をした
鉄道自殺だった

彼女は私より少し年上で
当時 立命館大学文学部史学科の学生だった

彼女の本が出版された時 私は東京にいて
今はもう会えなくなってしまったMという友人のアパ−トで
彼女の話をしたことがある

昨年の秋
私はなぜか 彼女に会いたくなって
新潮文庫に収められている彼女の本を買った

当時ベストセラ−となった「二十歳の原点」

彼女は今も 私たちの社会の中に生きている

きのうの夜 私は 彼女を思い出して
家の近くのレストランで
レモンサワ−を飲みながら 彼女の本を読んでいたら
なぜか胸が 熱くなりすぎてしまった

俺も年をとったのかな ?

彼女の本の 
最後に掲載されている詩を載せる

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

旅に出よう
テントとシュラフの入ったザックをしょい
ポケットには一箱の煙草と笛をもち
旅に出よう

出発の日は雨がよい
霧のようにやわらかい春の雨の日がよい
萌え出た若芽がしっとりとぬれながら

そして富士の山にあるという
原始林の中にゆこう
ゆっくりとあせることなく

大きな杉の古木にきたら
一層暗いその根本に腰をおろして休もう
そして独占の機械工場で作られた一箱の煙草を取り出して
暗い古樹の下で一本の煙草を喫おう

近代社会の臭いのする その煙を
古木よ おまえは何と感じるか

原始林の中にあるという湖をさがそう
そしてその岸辺にたたずんで
一本の煙草を喫おう
煙をすべて吐き出して
ザックのかたわらで静かに休もう

原始林を暗やみが包みこむ頃になったら
湖に小舟をうかべよう

衣服を脱ぎすて
すべらかな肌をやみにつつみ
左手に笛をもって
湖の水面を暗やみの中に漂いながら
笛をふこう
   
小舟の幽(かす)かなうつろいのさざめきの中
中天より涼風を肌に流させながら
静かに眠ろう

そしてただ笛を深い湖底に沈ませよう


2015年12月24日

ジェンダー アイデンティティー (Gender Identity)

私が通うサロン(もちろん真面目な)のエステティシャンは、
私の顔のマッサージをしながら、受容的なトーンで言う。
「翠流さんて、普通の男性と、ずいぶん違うみたい・・・・・」
私は、その言葉を聞きながら、二つの感情を抱く。
一つは、彼女に受け入れられているという安堵感。
もう一つは、今日もまた、
私はマジョリティーではないと、思わされるストレス。

私が所属しているボランティア団体の、まだ若いあの人は、
昨年の夏、私が、紫色の大きな花柄の、もちろんレーヨン素材の、
ウエストをつめた、流れるようなラインの(メンズの)アロハシャツを着ているのを見て、
驚いたように、しかし好意的に言った、
「翠流さんて、オシャレですね・・・。それって、どこで買ったんですか?」

アロハの季節が終われば、
やがて、ロングカーディガンの季節がやってくる。
私は、今年もまた、お気に入りの、メンズライクの、レディースの、
ロングカーディガンを着て、ショッピングモールを歩く。
今日は、ラウンドネックの下の薄手のタートルも、柄物のレディースだった。
先日私は、ある店の、メンズのコーナーに満足できなくて、
レディースのコーナーに行った。
昨年もそうだった。
被害妄想か否か定かではないが、
私に圧力をかけるように近づいてくる女性客。
しかし私は、心の中に幾ばくかの動揺を与えられても、
平然と、買い物を続けられるようになった。
それは、私に、新しく与えられた幾らかの解放と、長すぎる歳月を経ての開き直りと、
法務省が、人権擁護の主要課題に、マノリティーの人権擁護を掲げるようになったという、
時代の変化があるからだろう。
しかしもしも、私が女であったなら、
長すぎる抑圧の歳月はなかった。

私が常連となった、某レストラン。
その、なぜかもう1年以上、レディースデーをやっていないレストランの、
まだ若い女性店長は、笑みを浮かべながら私に言う。
「翠流さんて、ほんとうにオシャレですね。この前も、ほかの人と話してたんですよ・・・」
たとえ職業的な笑みであっても、私はその言葉に癒される。
しかし、時代を見れば女たちは、私より遥かに自由で、
消費の世界の一層の主役となった彼女たちと私の距離は、
むしろ、広がり続けていると思う。
女たちには、限りなく美を求める自由があり、
男たちには、それを阻む圧力がつきまとう。

私より遥か後方にいて、
美を剥奪された閉鎖空間に住み続ける男たち、
彼らは果たして、本当に、今の自分に満足しているのだろうか ?
彼らは実は、本質的には美を求めつつも、
不器用に、無理をして、既成の、「男らしさ」というジェンダーの呪縛の中に、
閉じ込められているのではないだろうか ?
呪縛を捨てれば、新しい幸せが来るというのに・・・・・。

私は自分が、マジョリティーであることを願う。

私たちは、本来、絶対性のないジェンダーの呪縛から自由のはずであって、
生まれ落ちた性別によって、求める世界が制限されてよいはずはない。
外部注入としてのジェンダーの呪縛は、
個性に対する不当な性的偏見として、理不尽なジェンダーハラスメントを引き起こす。
「男性として生まれた」という事実は、
何を求め、どう生きるかという、その人の本質を決定しない。
それは、インターセックスとして生まれても、女性として生まれても、同じである。
私たちには、自分らしく生きる自由が、あるはずなのである。


2017年06月26日

ジェンダー アイデンティティー (2)

女性だけに与えられる美しさに、
羨望・嫉妬を抱きながら、今日までを生きてきた。
小学校6年の時からである。
「区別」という名の「性差別」、
私は社会から「不当な性的偏見に基づくジェンダーハラスメント」を受けながら、
長い年月を生きてきたことになる。

私の女性美羨望は、
本能と同等であるかのような重さをもって、
私の人格の底辺に存在し続け、
私の人生を呪縛してきた。

私はもともと小心であるから、
女性用衣料を身に着けて街を歩くことなどできるはずはなく、
職場ならそれはなおさらのことであった。
しかし美しさを求める執念のような感情は、常に心に巣食っていて、
私は、男性用衣料品の中の、つまりは女性的美しさを剥奪された衣料品の中の、
しかしできるだけ美しく私に似合うものを探して、
デパートの紳士洋品売り場を歩き回っていた。

ある日、淡いパープル系のハイネックの、
スタイリッシュなメンズのセーターを着て職場に行った時、
管理職のNo.2の男がそれを見て、当惑の表情を浮かべたが、
私は、文句を言われれば、開き直るつもりだった。

またある時、仕事で遠方へ向かう3泊の旅行の準備会で、
中間管理職の男が、「男性はスーツにネクタイにしましょうか」などと言い出したので、
私は感情を抑えきれなくなって語気を強め、
「そんなことしたらハラスメントじゃないですか」などと発言したのであった。
私の勤務先は、同系列の職場の中では締め付けが弱かったこともあって、
彼の提案は潰れ、私は、旅行の初日、きれいなエンジ色のハイネックセーターと、
ライトグレーのブレザーを着ていったのであった。

たぶん、そういう私の雰囲気が言わせたのであろうが、
ある日、職場の若い女の子が私のところへ来て、
「翠流さんって、女になりたいんでしょう ・・・・・」などと言うのであった。

その彼女が2年後に私の職場を去り、
翌年であったか、私もまた新しい自由を得て職場を去り、
やがて私は、秋から春にかけて、既述の如く、
メンズライクではあるがレディースの、
ロングカーディガンを着て街を歩くようになった。

新しい自由は、私を「自分らしさに」連れていった。
しかし、家庭があれば、ダメだったでしょうね。妻や子供が許さない。
私みたいな人間は、家庭づくりができなくて、一人が自分に合っている。
淋しさには、もう慣れてしまった。

ところで私には、最近、改めて意識したことがある。
それは私の衣料品のこと ・・・・・
私が持っている衣料品の、約3分の1は「男性用」なのであるが、
残りの3分の2の、約半分は、オーダーのダンス用品、
つまりは、男性用でも女性用でもない、私好みの「翠流用」。
そして残りは ・・・「女性用」なのである。

いやいや、ご安心ください。
くり返しますが、私が持っているレディースは、メンズライクですから・・・・・。
以前、東京のあるところで出会った MtoFの素敵な人が、
心配する私に、電話で言った。
「だいじょうぶ。だって、翠流さんは、そんな、変な恰好してないじゃない・・・・・」

レディースのタートルネックは、メンズのラウンドネックの下のアクセント。
暑さを感じさせる今頃から、
普段も着るようになったバレエ系ダンスのレッスン用の、
既製のハーフパンツとガウチョは、
レディースでも、色は、黒か紺か紫。
数少ないメンズと違ってラインがお洒落に出ますが、
私が着れば、一般の人たちは、メンズかレディースかわからないでしょうね。

以前このブログで紹介した渡辺恒夫の本、
「脱男性の時代(アンドロジナスをめざす文明学)」を思い出す。
彼はその「第2章ー3」で、
ベンジャミン(H.Benjamin)の「性指向尺度(Sex Orientation Sukale)を次のように紹介していた。
私は自分のことを、その「T型」だと思っている。

ベンジャミン(H.Benjamin)の「性指向尺度(Sex Orientation Sukale)」

  0型:正常男性(ノーマル・メイル)
  T型:仮性異性装嗜好(シュード・トランスヴェスティズム)
       ・・・・・ 定期的女装にまで至らぬ軽度の女装趣味。含変身空想。
  U型:フェティシズム的異性装嗜好
       ・・・・・ 定期的女装。特に下着への興味と自慰時の使用。
  V型:真性異性装嗜好(トゥルー・トランスヴェスティズム)
       ・・・・・ 可能な限り女装。女装時に女性の意識を持つ二重人格。
  W型:非手術性変性症(ノン・サージカル・トランスセクシュアリズム)
       ・・・・・ 可能な限り女装。性転換を願望するが転換手術の必要は認められず。
  X型:中等度真性変性症
       ・・・・・ 可能な限り女性としての生活。
  Y型:重度真性変性症
       ・・・・・ 女性として生活。
                                       (以上)


2018年02月05日

女子を嫌う小中高男子

日本の社会に蔓延る(はびこる)女性優遇は、
女たちを特権階級化し、
彼女たちの持つ、したたかな自己中心性を、
是認、解放してきた。
大切なのは愛より自分。
大切なのは女たちの利益。

彼女たちは、その感情の機微と巧みな言葉の能力を、
女たちの優越のために使い、
男女関係のありかたを規定する。
したたかな自己中心性を携えて、
女だけに与えられた美への特権を享受しながら、
我が物顔で街を歩く女たち。
その手のひらの上で、下を向き、
ただ不器用に歩く男。

半年ほど前、
私は、ある場所で、ある女の、
凄まじい発言に出会った。
私がこういう活動をしていることなど、
全く知らない女である。
彼女は、臆することなど微塵もなく言った。

   今、女の子が生まれたら、みんなでおめでとう。
   でも男の子だったらそうじゃない。
   男の子だったら、みんなで、ご愁傷様 ・・・・・

凄まじすぎて、私は思わず笑ってしまう。
しかし彼女の言葉は、
今の社会の男と女の位置を、
非常によく表しているのではないかと思ったりする。

社会の変化は、様々な形をとって、
子供たちの世界にも影を落としているだろう。
昨年の6月、私は、インターネットの「excite.ニュース」で、
小中高生に現れている「少子化要因」を、危惧する記事を読んだ。
(URLと全文を、後半に掲載する。)

男性が直面する危機に、支援の言葉を贈ることなく、
鼻の下を長くして「光り輝く女性」発言を強調してしてきた安倍晋三は、
非婚・小子化・離婚の問題に、歯止めをかけることはできないだろう。
その原因はすでに、取り返しのつかない深さにまで浸潤を始めていると思う。
例えば、昨年報道された生涯未婚率、
男性 23.4%、女性 14.1%という数値の背景にあるのは、
男性の非正規雇用の問題だけではないだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
記事は次の通り。
URLと全文を記す、

【excite.ニュース】
  『女子はズルいと小中高男子に蔓延する「女子キライ」症』
     投信1 2017年6月8日 07時15分 (2017年9月4日 22時36分 更新)
   https://www.excite.co.jp/News/economy_g/20170608/Toushin_3419.html

【全文】
  ■ 少子化問題の根源はここまで低年齢化しているのか

    非正規雇用、保育園不足が解消されただけでは、少子化問題は解決しそうもない。
   見えないところで蔓延しつつある少子化要因をご存じだろうか。

  ■ 男子と女子の戦い今昔

    問いかけたのは、都内の学習塾に勤める女性。回答者は、小学6年生男子だ。

    「一番キライなモノ、何」
    「女子!」

    このやりとりを傍で聞いていた中学1年男子が、小6男子の肩にやさしく手をのせ、
   「気持ちはわかるけど、敵にだけは回すな」となぐさめるように声をかけた。

    2人とも、かなりの成績優秀者。テレでも、皮肉でもなく、どこまでもシリアスな
   光景であり、深刻さえただよわせていたという。

    小学校時代に、男子 vs. 女子の対立は昔もあった。大抵は男子が女子に暴力を 
   ふるった。

    男子が掃除をさぼる、デリカシーのない男子に、心を傷つけられて泣く女子という
   構図が通り相場だった。

  ■ 女子の横暴に泣く小学男子

    ところが最近は、デリカシーのない女子の横暴に泣く男子という構図が多い。

    「僕はちゃんと『山本さん』と呼んでいるのに、女子は『おい、ノボル』と呼び捨
   てにしてくる」と訴える。

    ちょうどそのとき、件の「山本さん」が通りかかった。

    「ノボル、教室で待ってるぞ」と力強く背中をたたいて教室内に走り去っていく。
   「山本さん」は、「ノボル」より背が高く、声も大きく歯切れもいい。

    おとなから見ると、微笑ましく映る光景でも、小学生にとっては憂鬱のタネ。
   ノボルの表情はくもり、眉間にはシワが寄る。こみ上げる不愉快さを持て余すように、
   ノロノロとノボルは教室に入っていった。

    女子小学生をもつ母親に、この様子を話してみた。

    「男子は弱いよ」という話は女子間に飛び交っているそうだが、「キライ」という
   のは聞いたことがないとのこと。異性ギライはどうやら、男子小学生だけに起きて
   いる症状のようだ。

  ■ 男子から見て女子のどこがズルいのか

    「女子のどこがキライなの?」
    「ルールを守れないとこ」

    男子同士には、これだけは言ってはいけない暗黙のルールがあり、ケンカして
   負けそうになっても、このルールは絶対に破らないのだそうだ。

    しかし、女子は負けそうになると何でも言う。ケンカの原因とは全く関係のない
   ことでも持ち出して攻めてくる。「だから、ケンカする気もなくなるんだ」と、口を
   尖らせた。

    「おまけに負けそうになると、陰で悪口言いまくって、関係のない女子まで巻き込
   む。こっちが忘れたころになって、集団でかかってくるんだ……、女子とはなるべく
   口をきかないようにしてる。女子はほんとにズルイよ」

    男子の言い分は、尽きることなく続く。女子のいない学校に行きたい一心で、男子
   私立中学校をめざして受験勉強にいそしむ毎日だと付け加えた。中学受験の動機に
   「女子のいない学校に行きたい」というのは、そう珍しいことはないそうだ。

    一方で無事、男子中学校に入学した男子からは、「女子がいないから、とりあえず
   『学校行きたくない』ってのはなくなったな」という感想が聞こえてくる。

  ■ 「オレ一生、女いなくていいよ」

    女子の話題で盛り上がる光景もないではない。男子校に通う高校生だ。ようやく
   健全な姿に出合えたようで、ホッとした気分になる。だが少し踏み込んでみると、
   耳を疑うような高校生活があった。

    「女に関心のあるフリをしていないと、同性愛と間違われるから女の話をしてる
   だけだよ。誘われてから断ると、カドが立つ。女はキライじゃないけど、好きでも
   ないし、めんどくさいってのはあるな」

    「それで困らない?」

    相手は、高校生。オトナの質問を向けてみる。

    「オレ一生女いなくていいよ。二次元の女で十分だもん」

    この男子高校生も、有名大学に多数の合格者を出す高偏差値私立高校に通っている。
   しかもジャニーズばりのイケメン。モテないはずはない。

    見えないところで、少子化問題の新たな原因は着実に浸潤しているようだ。