2015年07月20日

服装差別

今回は、まず服装に関わる私の感受性を、改めて確認し、
続いて、前回紹介した「脱男性の時代(渡辺恒夫著)」の、 
関連部分を引用する。
このような記事を書く背景には、
私や、私と類似した感性を持つ男性が、
男性であるが故に回避できないストレスや被差別の事実を、
渡辺恒夫の言葉を借りながら、
顕在化させたいという思いがある。
既に、別の記事に書いたように、
この思いは、憲法第13条の理念によって、
擁護されなければならないと考える。

記事「マイノリティーの人権」に書いたように、
私は、既に小学校6年の時から、
社会には、男性に対する「服装差別」が存在すると、
強く感じてきた。
それは私の感受性の為せる業であって、
理屈の所産ではない。
ここ数年の経験からすれば、
私は、やはり別の記事(注1)に書いたように、
秋から翌年の春にかけて、メンズライクではあるがレディースの、
ロングカーディガンを着て街を歩くようになって、
その思いを一層強くするようになった。      (注1)記事「ロングカーディガン」

レディースの衣料は、色も柄もデザインも素材も、溢れるばかりの種類に彩られ、
女たちは、それだけでも充分に幸せなのであるが、
着てみればそれは、実は視覚的な意味合いだけではなくて、
肌を通して、つまりは皮膚感覚によって、
更なる幸せを与えるように仕立てられていると実感する。
それは、男たちを疎外し、女たちが占有する世界である。

美しさや様々の彩りだけでなく、皮膚感覚の喜びも剥奪されたメンズの衣料は、
私たちの社会に存する男性の性別役割に類似して、
男たちを、「男性用」という強制力によって、
硬く粗雑で、無機質な世界に閉じ込めようとする。
それは、私の感性からすれば、
紛れもない、ジェンダーハラスメントなのである。

「脱男性の時代」から、関連部分を引用する。

 【p.78〜79】・・・ 近代市民社会にあっては、女性の美が前代にも増して尊重され称揚され
    る一方、男性の美は無用とされ、それどころか、男性は美しくあってはならないと
    する不可視の規制力が、私たちの内面を支配し、美意識を根底から条件づけている
    のが見られるのである。このことは、今日、街頭で見受けられる女性の服装が、美
    を際立たせるよう巧みに工夫されているのとは対照的に、男性の服装が、美的な要
    素の排除を基調として組み立てられているかに見えることからも、充分裏書きされ
    ることであろう。かかる社会にあって、生来美的な感受性に恵まれた少年が、成長
    するにしたがい、自分は美しくもなければ美しくあってもならない方の性に属して
    いるのだということを、ことあるごとに思い知らされ、深く心を傷つけられないと
    したら、かえって奇妙なことと言わねばなるまい。

まさに、渡辺恒夫の言う通りであると、私は強く実感する。
続いて渡辺恒夫は、横溝正史の小品「蔵の中」から、
次のような、作中の「私」の文章を引用する。

 【p.79〜80】・・・ そのうちにこれではまだ満足できなくなって、長持ちの中から、姉の形
    見の振り袖を取り出すと、それを自分の身につけて見ました。さやさやと鳴る紅絹
    裏の冷たい感触が、熱っぽい肌をなでて、擽るようなその快さ、・・・・(中略)・・・
    私はしばらく驚異の眼をみはって、茫然としてこの美しい、・・・(中略)・・・ その
    うちに何とも言えぬほどの寂しさにうたれました。ああ、私は何だって男になど生
    まれて来たのであろう。女に生まれていたら、毎日こうしてお化粧も出来、色美し
    く肌触りのいい着物を着てくらせるのに、男に生まれたばっかりに、こんなゴツゴ
    ツとした、くすんだ色の着物よりほかに着ることも出来ず、お化粧をするわけにも
    参りません。何という勿体ない事であろうと私は思わず、ふかい溜め息をつくので
    した・・・・・・。

横溝正史の、表現の卓越に敬服する。
まさにこの、作中の「私」のような男性が、
「男性」と名付けられる集団の中に存在する。
そして彼らにとっては、
今日の服装の、性による区別は、
まさに、ハラスメントとしての「服装差別」そのものなのである。


posted by 翠流 at 23:32| Comment(0) | ジェンダー・アイデンティティ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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