2014年11月19日

服装の自由と性的挑発

人に不快感を与えすぎない範囲で、という条件はあるが、
服装は、基本的に自由のはずと、
私は、以前の記事に書いた。
しかし、私たちの生活を見れば、
そこには、個性を無視した服装の制約があって、
私たちは、自由ではない。

たとえばレディ−スであるとかメンズであるとか、
どこの誰が決めたのか、私にしてみれば、わけのわからない分類によって、
区別された衣料品とそれに応じたショッピングモ−ルの空間がいつのまにか用意され、
私たちは性別に応じて、
それぞれの空間で自分の買い物をしなければならない。

私は、クロスドレッサ−(トランスヴェスタイト)の人たちを気の毒に思う。
特に男性のクロスドレッサ−。
なぜなら、理不尽なことに、
男性の異装は、女性のそれより咎められやすいからだ。

もっとも、私が若かった頃に比べれば、
社会はずいぶん寛容になった。
たとえば私の居住県では、6年ほど前であったか、確か中学校で、
トランスセクシュアル(トランスジェンダー)のFtM(注1)の生徒が、
異性の服装で、卒業式への参列を認められた。
その背景には、県の法務局の人権擁護課の働きかけがあったようで、
それを促したのは、当時の法務省の、
性的マイノリティ−に対する人権擁護の動きであったと私は捉えているが、
もとより、生まれ落ちた性別によって、
その人の、人間としての本質が決まるはずはなく、
人には本来、社会通念としてのジェンダ−の呪縛から、
自由になる権利があると私は思う。
          (注1) Female to Male(女性から男性へ)
1年ほど前であったか、新宿のあるクリニックで、
乳房の摘出手術を受けた FtMの人が死亡した。
その手術を執刀した医師は、
すでに性別適合手術を受けた MtoF(男性から女性へ)の人と聞いた。
その、叫びのような悲惨を、
私たちは受けとめ、
トランスセクシュアルの人たちの人権を、擁護しなければならない。

ところで、冒頭に書いた「人に不快感を与えすぎない範囲」の服装の自由に関わって、
私は、近年とみに顕著となった、女性の、性的挑発傾向の強い服装に、
強い当惑とストレスを感じている。
その服装は、女性解放の一つの形であると、
私が女性であれば表現可能であるが、
私は男性として存在しているがゆえに、
例えば昨年の夏、私は、
オリンピックの女性競技者の衣装やユニフォ−ムの変化を見て、
ショックで、体重が2kg減った。
それには、私のジェンダーアイデンティティに関わる疎外感が、
かなりの質量を以って関わってはいるが、
しかし同時に、性的対象がノーマルである私の、男性としての側面から言えば、
その、性的に翻弄されるコスチュームが、
オリンピックの映像であるがゆえに世界的承認の中にあると認識され、
一層強いショックを受けたのである。

消費の世界であれば、
女性をターゲットとした優遇戦略を記事として取り上げてきたが、
ファッションであれば、
女性の「着る幸せ」が、際限なく拡大を続けるような今にあって、
それは、美しさを求める私にとっては、
たどり着けないがゆえに一層の、羨望と嫉妬の対象ではあるが、
同時に、その、ファッションの進化の中で、
性的挑発傾向の強い服装が、
男性の性的心理を知りつつもそれに構わず、
或いは、時にはそれを意識的に利用しながら?
私たちの日常に流出し、
挑発は罪ではないが挑発されるのは罪であるかの如く男性を翻弄する今の時代に、
私は、強い疲労と、やり場のないストレスを感じるのである。

その、性的刺激の本来の意味を考えれば、
それは、性的に成熟した異性に対する生殖行動のリリ−サ−(解発因)なのであって、
愛し合う二人の間でそれをどう使うかは、
全く二人の勝手であるが、
不特定多数で構成される社会の中で、
たとえば男性が明らかに翻弄される極端なミニスカ−トであるとか、
派手な下着が透けて見えるトップスであるとか、
下着そのものが裸出されたファッションであるとか、
そういう、リリ−サ−を開放しすぎるファッションは、
私のような男性にとっては、
紛れもないセクシュアルハラスメントなのである。

ところがそれを、「男性に対するセクハラである」とは表現しない風潮が強くなっている。
それは、「男性は過度の性的ストレスにも耐えなければならない」という、
不当な性別役割の押しつけであると私は思う。
性的挑発は罪ではないが、それに翻弄されるのは罪であるというような、
あたかも、自己中心的な解放運動であるかのような、
新しい男性差別の出現である。

ちなみに、過日マスコミで話題となった某航空会社の、
女性乗務員の極端なミニスカ−トについての賛否を問うアンケ−トの集計結果の中に、
反対理由として「乗客のセクハラを誘発する」という表現があった。
要するに、極端なミニスカ−トを、
「男性乗客に対するセクハラである」とは表現しないのである。
それは、男性を、より加害的な立場に置こうとする、男性差別の視点である。

考えてみれば、もとより、男性が女性の性的刺激に翻弄されるのは、
自然が男性に与えた宿命なのであって、
その感受性がなければ、男性は生殖に参与できない。
この、男性の不可避の弱点を知りながら、
翻弄される男性を嘲笑するかのように街を歩く女たちもいる。
それを批判すれば、男性が悪者にされてしまうような風潮の中にあって、
理不尽なストレスは、増すばかりなのである。


posted by 翠流 at 18:33| Comment(0) | ジェンダー・アイデンティティ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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