2013年06月14日

目覚めれば深夜

(2020年7月:加筆)

月曜の朝、知人のブログに、
気になる記事を見てしまって、
疲労感が一日中、心の中に残っていた。
夜、現代舞踊のレッスンから帰ってきて、
シャワ−を浴びようと思ったのに、
駐車場の車の中で、睡魔のために寝込んでしまい、
目覚めたときは、深夜の2時を回っていた。
記事の内容は、いつもの如く人権に関わることで、
発信者との、考え方の微妙なズレが、
整理しきれない感情を生み出して、
私には強いストレスだった。

ここ数年、人権絡みの活動に足を踏み入れて、
私はいくつかの新しい知識を得たが、それはかえって、
「人権の世紀」と言われたはずの今の日本で、
その言葉を裏切る差別が拡大していることを、
私に意識させることとなってしまった。

若い頃、差別問題の学習会に参加した時、
ある講師が、差別撤廃運動の過程で現れる逆差別について語っていたが、
まさにその典型が、今の日本で、
男性に対する差別として拡大している状況を見て、
私は強い疲労を感じている。

若い頃の私には、
学習会が取り上げたようなような、深刻な被差別経験はなく、
差別撤廃運動の過程で現れる被差別者の暴力性を、
受け止めることなく否定的に捉えていた。
しかしその頃、私の職場のある人が、ある時職員室で、
暴力性の背後にある、被差別者の思いを、
擁護する発言をしたことがあった。
私は今、その強い語調を思い出しながら、
彼等の思いを、共感的な色彩を持って、
捉える自分を意識する。

しかしそれを肯定すれば、
今の日本で拡大する逆差別もまた、
差別撤廃途上の必然として、
私自身が受け入れ、肯定せざるを得ないという、
滑稽さと深刻さを同時に孕む矛盾の中に、
足を踏み入れることになるのだろう。

報復の連鎖を繰り返さないために、
「男女共同参画」であるならば、その「美名」の通りに、
男性への差別を招来することなく、
美しい共同参画の世界をつくり上げて欲しいと思う。
しかし、もしも男女局が、この願いに応える存在であったならば、
たとえ「(案)」であったとしても、
あのような「男女共同参画の視点からの防災・復興の取組指針 (案)」は、
つくられなかったはずなのである。
それを思うと、今日もまた、男女局への不信と、憤りと、
怨恨を孕んだ疲弊感を、
禁じえないのである。

加えてもう一つ、男女局に発言しておきたいことがある。
それは、完成した「男女共同参画の視点からの防災・復興の取組指針」でも修正されることのなかった「男女別統計の整備」に象徴されるような、
男女局の二項対立的視点。
男女局には、統計的数値の比較によって個性を切り捨て、
統計的差異を、女性側への利益誘導のための素材として、
或いは、女性限定配慮を正当化するための素材として、使う体質がある。
それは、やがて具体的事例として記すように、
人間の尊厳や、生活のQOLを、
特に男性から剥奪する暴挙として現れる。
統計的差異を根拠として、
女性より少数であった男性の人権を切り捨てて良いのか。
それは、個人に対する人権侵犯の可能性を孕む統計的差別ではないのか。
しかも、その統計調査の回答には、
これもやがて記す機会があるように、
「男らしさの規範」というジェンダーバイアスが影を落としている。

2002年の閣議決定が端緒となって、
国が、性的マイノリティーの人権擁護に踏み込むようになった。
その、画期的な成果も契機の一つとなって、
「多様性」という言葉が、ようやく、
日本全国に拡散するようになった。
しかしそれは、典型を捉えただけの「多様性」であって、
男性集団の中に、実は内在している様々の多様性は、
今も旧来のジェンダーバイアスの支配下にあり、
不当な抑圧に晒されている。
男女局は、固定的性別役割からの解放を謳うが、
その主役は、現段階では女性であって、
男性への配慮は、不存在か、脇役としての処遇か、
表面的、形式的な配慮である。
本来、両性に配慮すべき男女局は、
女性への配慮に傾斜しすぎることなく、
バイアスの支配下にある男性の人権にも目を向け、
真に多様性の認識を踏まえた、全ての人に対する人権尊重の、
共同参画社会を目指してほしいと思う。


posted by 翠流 at 04:19| Comment(4) | 人権擁護への思い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「各論」はともかく、「総論」で申し上げますと、「差別撤廃」については、そう悲観的になる必要はないでしょう。翠流さんは、どうも深刻に考えすぎるように思います。

なぜなら、世の中は、ゆっくりですが確実に「差別撤廃」の方向に進んでいるからです。アメリカや世界の例を挙げるまでもなく、江戸時代の身分制度、連座制をみてください。女性差別しかり、そして、男性差別しかり、です。

ただし、「いつか(差別は)なくなる」からと言って「何もしない」のでは、結局、何も変わらない、差別はなくなりません。私らのような「選ばれし者たち」がいるからこそ、社会は変わる、差別はなくなっていくのです。「悲観」するのではなく、そういう「使命感」、そういう「誇り」を持つことが大切です。
Posted by ドクター差別 at 2013年06月15日 10:05
ドクタ−差別様。いつもありがとうございます。「深刻になりすぎる」「悲観的になりすぎる」「もっと楽観的に」という、以前もいただいたご指摘を、私はたぶん忘れずに、自分の感情の軌道修正のために使わせていただく思います。それは、自分自身の運動の継続のために、言い換えれば、弱さを抱える自分の挫折を回避するために。しかし、私には、もう一つの認識がある。それは、今の日本で、男性差別の加害者となっている人たちに対して、私のような感受性が確かに存在するのだということを訴えたい、という思いであると言ってよい。似非フェミニストも色々でしょうが、私の認識では、男性に対する加害性を充分自覚していながら、しかし自己中心の運動を展開する、したたかな似非フェミニストとがいる一方で、実は良心的で、男性差別はよくないと思っていながらも、加害性に対する認識が弱いままで、男性差別を孕むフェミニズム運動の流れに乗ってしまっている人たちもいる。結局、両方の人たちに、ということではありますが、私のような人間が存在するという主張には、人権の尊重という観点で、意味があると思うのです。コメントありがとうございました。ご多忙の折、体調を崩されぬよう、お祈り申し上げます。
Posted by 翠流 at 2013年06月16日 02:41
「ナイーブさ」というのは、「両刃の剣」です。「ナイーブさ」がなければ、たぶん、差別に気づかない、世の中の矛盾に気づかないでしょう。しかし、「ナイーブ」なままでは、その差別をなくせない、世の中の矛盾を正せないでしょう。つまり、「ナイーブさ」を克服することが重要なわけです。翠流さんの発言から伝わってくる「固い信念」からすれば、それは必ず可能でしょう。
Posted by ドクター差別 at 2013年06月16日 08:59
ドクタ−差別様。
『「ナイーブ」なままでは、その差別をなくせない、世の中の矛盾を正せないでしょう。』
重い言葉だと思います。背後に、長い経験からくる洞察があるような気がする。
心に留め置きたいと思います。
ありがとうございました。
Posted by 翠流 at 2013年06月16日 09:56
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