2013年06月14日

目覚めれば深夜

月曜の朝早く、インタ−ネットの、いつものペ-ジで、
気になる記事を見てしまって、  
疲労感が一日中、心の底に残っていた。
夜、モダンダンスのレッスンから帰ってきて、              
シャワ−を浴びようと思ったのに、
駐車場の車の中で、睡魔のために寝込んでしまって、
目覚めた時は、深夜の2時を回っていた。
記事の内容は、いつもの如く人権に関わることで、
発信者との、考え方の微妙なズレが、       
整理しきれない感情を生み出して、
私には強いストレスだった。

ここ数年、人権に関わる問題に、やや深入りするようになって、
いくつかの新しい知識を得たが、それはかえって、
「人権の世紀」と言われたはずの今の日本で、
実は、その言葉を裏切るような差別が進行していることを、
私に意識させることとなってしまった。

若い頃、差別問題の学習会に参加したとき、
ある講師が、差別撤廃運動の過程で現れる逆差別について語っていたが、
まさにその典型が、今の日本で、
男性に対する差別として、拡大しつつある現状を見て、
私は強い疲労を感じている。

若い頃の私は、
深刻な被差別感を経験したことがなく、
差別撤廃運動の過程で現れる、被差別者の暴力性を、       
自信を持って否定的に捉えていた。
その頃、私の職場のある人が、ある時職員室で、
確かもう外が暗くなっていた時刻に、
その暴力性の背後にある、差別されてきた人たちの心を、
弁護する発言をしたことがあった。
私は今、その強い語調を思い出し、    
被差別者の行動の暴力性を、
あの頃より肯定的な色彩を持って、
捉えるえるようになった自分を意識する。

しかしそれを肯定すれば、  
今の日本で日々拡大する逆差別もまた、   
差別撤廃運動の過程で現れる必然として、          
私自身が受け入れ、肯定せざるを得ないという、
滑稽で深刻な矛盾の中に、
足を踏み入れることにもなるのだろう。    

報復の連鎖を繰り返さないために、   
今の日本の、全国の男女共同参画部局が、その「美名」の通りに、     
男性に対する差別を生じさせることなく、
美しい共同参画の世界を、つり上げてくれることを願いたい。
しかし、もしも男女局が、この願いに応える存在であったのならば、        
3月28日に提示された内容のような、                      
「男女共同参画の視点からの防災・復興の取組指針(案)」は、           
存在しなかったはずなのである。                         
それを思うと、今日もまた、不安と、不信と、
そして、これからもまた、私がせざるを得ない努力と、それにつきまとう疲労を思い、
心が重くなるのである。

もう一つ、全国の男女共同参画部局に、改めて言っておきたいことがある。   
内閣府男女局の、個々の職員の方々との会話や、     
統一性は今も不足すると思われる「男女共同参画の視点からの防災・復興の取組指針」の、
特定の部分には、もうすでに、その一部はあるのだが、
私たちが「共同参画」の理想に近づくためには、
私たちは、人間を「男と女」に分けて論ずる「二項対立的視点」の不完全さを認識し、 
それを越えて、                                 
私たちの社会が、実に多様な人間、多様な感受性から成り立っているという認識を、
活動理念の中枢に、強固な柱として据える必要があると思う。  

性的マイノリティ−の人たち、                          
たとえば、性同一性障害の人たちに対する人権の尊重は、  
性別適合手術の合法化によって、一歩前進することとなった。
また、医師の帚木蓬生(ははきぎほうせい)は、小説「インタ−セックス」によって、
半陰陽の人たちの人権の問題を、私たちに提起した。
そういう、人権尊重の気運の広がりの中で、
全国の男女共同参画部局は、
「男女共同参画の視点からの防災・復興の取組指針」の最終ペ−ジ、         
「男女別統計の整備」に記された、二項対立的視点の不完全さ、       
そして、そこにある、人権軽視、人権無視の危険性を、
強く認識しなければならないと思う。
性的マイノリティ−の人たちに対する人権侵犯の回避だけではなく    
多様性を備える人間、多様な感受性の存在を改めて認識し、             
人間の、感受性のグラデ−ションの領域で生活するすべて人たちに対して、      
人権尊重の配慮はなされなければならない。                    
先入観、或いは、不当な性的偏見に基づく人権軽視、人権無視、人権侵犯は      
決してあってはならない。
posted by 翠流 at 04:19| Comment(4) | 人権擁護への思い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「各論」はともかく、「総論」で申し上げますと、「差別撤廃」については、そう悲観的になる必要はないでしょう。翠流さんは、どうも深刻に考えすぎるように思います。

なぜなら、世の中は、ゆっくりですが確実に「差別撤廃」の方向に進んでいるからです。アメリカや世界の例を挙げるまでもなく、江戸時代の身分制度、連座制をみてください。女性差別しかり、そして、男性差別しかり、です。

ただし、「いつか(差別は)なくなる」からと言って「何もしない」のでは、結局、何も変わらない、差別はなくなりません。私らのような「選ばれし者たち」がいるからこそ、社会は変わる、差別はなくなっていくのです。「悲観」するのではなく、そういう「使命感」、そういう「誇り」を持つことが大切です。
Posted by ドクター差別 at 2013年06月15日 10:05
ドクタ−差別様。いつもありがとうございます。「深刻になりすぎる」「悲観的になりすぎる」「もっと楽観的に」という、以前もいただいたご指摘を、私はたぶん忘れずに、自分の感情の軌道修正のために使わせていただく思います。それは、自分自身の運動の継続のために、言い換えれば、弱さを抱える自分の挫折を回避するために。しかし、私には、もう一つの認識がある。それは、今の日本で、男性差別の加害者となっている人たちに対して、私のような感受性が確かに存在するのだということを訴えたい、という思いであると言ってよい。似非フェミニストも色々でしょうが、私の認識では、男性に対する加害性を充分自覚していながら、しかし自己中心の運動を展開する、したたかな似非フェミニストとがいる一方で、実は良心的で、男性差別はよくないと思っていながらも、加害性に対する認識が弱いままで、男性差別を孕むフェミニズム運動の流れに乗ってしまっている人たちもいる。結局、両方の人たちに、ということではありますが、私のような人間が存在するという主張には、人権の尊重という観点で、意味があると思うのです。コメントありがとうございました。ご多忙の折、体調を崩されぬよう、お祈り申し上げます。
Posted by 翠流 at 2013年06月16日 02:41
「ナイーブさ」というのは、「両刃の剣」です。「ナイーブさ」がなければ、たぶん、差別に気づかない、世の中の矛盾に気づかないでしょう。しかし、「ナイーブ」なままでは、その差別をなくせない、世の中の矛盾を正せないでしょう。つまり、「ナイーブさ」を克服することが重要なわけです。翠流さんの発言から伝わってくる「固い信念」からすれば、それは必ず可能でしょう。
Posted by ドクター差別 at 2013年06月16日 08:59
ドクタ−差別様。
『「ナイーブ」なままでは、その差別をなくせない、世の中の矛盾を正せないでしょう。』
重い言葉だと思います。背後に、長い経験からくる洞察があるような気がする。
心に留め置きたいと思います。
ありがとうございました。
Posted by 翠流 at 2013年06月16日 09:56
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