2019年10月16日

某所への書籍紹介文

たまたま機会を得て、ある団体の広報誌に、
「脱男性の時代(渡辺恒夫著)」の紹介文を書くことになった。
私は、その団体に所属していながら、
アウトサイダーのような行動と発言をして、
末席をけがしている存在なのであるが、
だからこそ書けるような紹介文ではあって、
それが、それ故に団体の活動には寄与しないかというと、
必ずしもそうではないようなのである。

紹介文には字数制限があったが、
それ以前に、私の狭い問題意識からの紹介文であるから、
本の内容全体に対する客観性という点でみれば、
脆弱さが、多々指摘されるのだろう。
しかし私の、大きくは二つの問題意識と、この本との共鳴部分については、
表現したような気もするし、
それは、はなはだ今日的な問題でもあるのだろう、とは思う。

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【紹介文】
  「性的マイノリティーへの理解と、ジェンダーハラスメントからの解放のために」
       書名:脱男性の時代 ・・・ アンドロジナスをめざす文明学
       著者:渡辺恒夫。 勁草書房。

 この本の著者、渡辺恒夫は、ボーボワールが示した定式に対抗して、「人は男として生まれるのではない。男につくられるのだ。」という新たな定式を強調してきた。歴史を振り返れば、戦前戦中の男性教育は、まさにその典型であっただろう。それは戦争の道具としての男たちをつくりあげる教育であって、多様性を内包するはずの男性集団への画一化教育であった。勝つことから乖離する要素は男たちから剥奪されていった。それは例えば「涙の剥奪」であり、「美しさを身に纏う権利の剥奪」でもあっただろう。そういう、いわばジェンダーハラスメントとしての抑圧と、その結果としてつくられた男たちの暗部を照明しながら、渡辺恒夫は「アンドロジナス(両性具有)」への道を模索する。

 「美しさを纏う権利の剥奪」であるならば、引用された横溝正史の「蔵の中」で、作中の「私」は、姉の形見の振袖を身に着けながら、男に生まれた理不尽を嘆く。「私は何だって男などに生まれてきたのであろう。女に生まれていたら、毎日こうしてお化粧も出来、色美しく肌触りのいい着物を着てくらせるのに・・・」と。

 この「蔵の中」が映画化されたのが1981年。そして「脱男性の時代」が刊行されたのが1986年。以後、ある人の言葉を借りれば、日本の性同一性障害解放運動の「胎動期」を経て、2002年に「人権教育、啓発に関する基本計画」が閣議決定される。法務省はこの決定を受けて、「主な人権課題」に性的マイノリティーの人権擁護を入れた。国がLGBTの味方になったのである。

 このような変化を含め、多様性という言葉が社会に拡散する時代となった今、しかし、冒頭に記したような男性教育が仮に不存在であっても、社会には、その影響下でつくられた「男らしさの規範」が、今も根深い同調圧力として存在する。解放された若い女性に比するなら、男たちは今もその圧力に呪縛され、不器用に生きているように見える。渡辺恒夫はこの本の中で、21世紀は男性問題の世紀になると予見していた。見えやすい強さとしての体躯や筋力を自然から与えられ、前述の如き性別役割を背負わされてきた男たちの、しかしその内部の、未だ暗部として存在する脆弱さに光を当て、渡辺恒夫は、男性解放へ向かう選択肢の一つとして、アンドロジナスへの道を提起する。


posted by 翠流 at 23:56| Comment(0) | ジェンダー・アイデンティティ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする