2015年05月31日

脱男性の時代 (1)

ある人から紹介されて、
渡辺恒夫の「脱男性の時代」(勁草書房)を買った。
初版は、1986年ではあるが、
冒頭の引用文(下記:本書第4章より)は、
私の認識からすれば、今も甚だ今日的で、
私の持つ問題意識に、
次第に、鮮明な姿を与えてくれるように思われた。

  冒頭引用文(本書第4章より)

    人は女として生まれるのではない。女につくられるのだ。
                        ・・・・・・ ボーヴォアール『第二の性』

     この書物を通じて、私はたえずボーヴォアールに対抗し、「人は男として生まれ
    るのではない。男につくられるのだ」という新たなる定式を強調してきた。そして、
    その論拠の一つとしてたえず援用してきたのが、男であることに間断なく苦しみ、
    漠たる空想にとどまることなく、真の意味で、生涯かけて変性を願望する男性は、
    女であることに間断なく苦しみ、真の意味で変性を願望する女性よりもはるかに多
    いという、現代性科学の発見だった。

もしも、これから書くことの中に、
私が、私であるがゆえの、
ひとりよがりの偏見があるとすれば、
それはむしろ、幸いなことなのかもしれないが、
日々、日常の中の男たちを見るにつけ、
私には、彼らの人格のどこかに、
いつの間にか、自らが男性であることに囚われて、
無理をして、不器用に、
男性であろうと、或いは男性になろうとしている姿が、
あるように思われる。

たとえば私が好きな喫茶店を訪れるカップルの、
男たちの、言葉や仕草や表情の中の、
男性であるがゆえの、或いはそれに囚われた、脆弱な姿。

それに比べれば女たちは、
女の時代の今にも支えられながら、
いつの日も自然に、したたかに女であって、
美しい髪も、美しい肌も、その化粧も、
そして、美しさをまとうことのできるそのからだも、
脆弱さなど微塵もなく、この世界に存在しているように見える。

したたかな女たちと、
その手のひらの上の男たち。

ところで私は、
性同一性障害の人たちとの交流会の中で、
ある MtoF の人から聞いた。
彼女(彼)が通院しているジェンダークリニックの医師によれば、
最近は、MtoF の通院者が、
性同一性障害であるか否かの判断が難しくなっているのだそうだ。
それは恐らく、
男性であることのストレスの増加から、
女性への変性を望む男性が増えていることの証であろうと、
私は、その話を聞いた。
女の時代が、男性の、
変性願望を増幅させている。


posted by 翠流 at 01:54| Comment(3) | 書籍紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする